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名演2018年5月例会 劇団民藝公演

大正の肖像画

作/吉永仁郎 演出/高橋清祐 補演出/中島裕一郎

「描くことは生きること、愛すること」
大正期に活躍した洋画家・中村彝(つね)と
『中村屋サロン』に集う人びとが織りなす
一時代のポートレート

5月15日(火)6時45分
   16日(水)1時30分
       6時30分 
日本特殊陶業市民会館ビレッジホール(名古屋市民会館中ホール)
地図

上演時間2時間35分
(途中休憩15分を含む)

大正の肖像画表 大正の肖像画裏
あらすじ・みどころ
中村彝(ツネ)の生涯

キャスト・スタッフ
関連サイトリンク
会費 月額一般 2700円 29歳以下 2000円  
   高校生以下 1300円
入会金  一般  3000円 29歳以下 2300円    
高校生以下 1600円
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     彗星のように画壇に現れ、大正期に活躍した洋画家・中村彝(つね)。
     十代後半に肺結核に侵されながらも画業に励み、新進の画家として注目された頃、縁あって住むことになったのは新宿の中村屋裏のアトリエでした。
     新宿の老舗中村屋の創業者、相馬愛蔵・良夫妻がパン屋をこの地に始めたのが明治42(1909)年、彼がここに住む二年前でした。急速に発展した新宿という土地の利を得て店は栄え、美術家・詩人・小説家・学者・俳優などが出入りする文化サロンの役割を果たしていました。 彝はサロンの女王・良に惹かれますが、娘の俊子を絵のモデルにしたことから良との関係がこじれ、やがて彜は中村屋を出て新宿近くの下落合へアトリエを移します。

     1910年代から20年代にかけての大正時代。すぐれた画家を輩出しましたが、当時死病と言われた肺結核のため、その多くが20代30代の若さで死んでいきました。彜もまた10代後半に肺結核に侵され、病苦と孤独に向きあいながら画業に励みつづけてきました。「描きたいものは全部描いた」と言う彜が、死を目前にして最後に選んだモデルは…。

     絵を描くことが生きることであり愛することだった彜の壮絶な青春の日々と、親友・彫刻家中原悌二郎、恋の葛藤を演じる大杉栄と神近市子、盲目のロシア人エロシェンコ、家政婦の老女岡崎キイなど、彜をとり巻く人々を遺された数々の肖像画とともに舞台によみがえらせ、世界に開かれていた大正デモクラシーの時代を鮮やかに描き出します。

     作者の吉永仁郎は、『集金旅行』『 静かな落日』など、名演ではおなじみで、評伝劇では大変定評があります。
     

    この作品の主な舞台は新宿中村屋の裏にあるサロンです。
    中村屋がサロンに集まる芸術家たちの支援をしました。

    〇 中村 彝
    本作品の主人公。画家、茨城県水戸市出身。中村屋の アトリエで生涯の友となる中原悌二郎と出会う。肺結核 に侵されながらも数々の肖像画を生み出していった。
    〇 相馬愛蔵
     中村屋の創業者。長野県安曇野出身。相馬良(黒光)と 結婚。上京し、本郷帝大前にパン屋「中村屋」を開業。 8 年後(明治42 年) 新宿駅青梅口の本店を開く。 この頃より文化人・芸術家らが店の裏のサロンに集まっ てくる。
    〇 相馬 良
     愛蔵の妻。宮城県仙台市出身。サロンに集まる芸術家 への熱狂的な後援者。人的交流の輪を広げ国籍をも越 え、ロシア人、インド人らとも交流していった。
    〇 相馬俊子
     相馬家の長女、信州穂高で祖父母の下、育てられる。 東京の女学校に進学。中村屋で中村彝と出会い、彼の モデルとなる。インド人ボースと結婚、二児を出産。 革命家の彼との逃亡生活の過労から26 歳の若さで亡く なる。

    中村彝(ツネ)の生涯

     中村彝は明治半ばに生まれて大正を駆け抜けた画家である。僅か37 才の生涯であった。
     20 年に及ぶ闘病生活を余儀なくされた過酷な人生でありながら、数々の傑作を残し、心ある友人や支援者に愛されながらその生を全うした。以下彼の人生を辿ってみよう。

    < 誕生〜少年時代>
     明治20 年(1887)水戸の生まれ。1 才になる前に父親と死別。11 才、高等小学校在学中、今度は母親と死別。残された家族は長兄を頼って上京する。14 才の時、早稲田中学(旧制)を中退して名古屋陸軍地方幼年学校に入学。その直後元気だった次兄が急逝する。
     彝は厳しい訓練に何とか耐えて17才で卒業。しかし卒業直前に胸部疾患が見つかる。その後東京幼年学校へ進むも退校。同じ年(明治37 年)長兄が日露戦争で戦死。このように彝の少年時代は多難続きだった。世は明治。この時代によくぞ精神的に持ちこたえたものと思う。自暴自棄にならなかったお蔭で、私たちは彝の素敵な作品を鑑賞出来るのである。

     単にノスタルジックに昔は良かった式の描き方ではなくて、濃密な人間関係の中で、逆に濃密であるが故に、寂しかったり、すねたり、傷ついたり、またあえて、人を傷つけたりする姿も、リアルにかつ丁寧に描かれている。本当に細やかで巧みな描写がなされている。ユーモラスな場面が、さりげなくちりばめられていて、笑いをとり、観客をなごませてくれるだろう。  

    < 画家への道>
     身辺がフリーになった彝は療養を続けながら以前から好きだった絵の勉強を始める。友人たちとあちこちスケッチに出かける。画家になる決意を固めて明治39年、黒田清輝らが結成した白馬会に入会。修行に励む。ここで生涯の友となる中原悌二郎と知り合う。他に鶴田吾郎、広瀬嘉吉ら素晴らしい友を得る。中原が太平洋画会研究所に移ったことに影響されて彝も後を追う。この研究所では帰朝間もない中村不折らに指導を受ける。 
     明治40 年、第1回文展(文部省主催の美術展覧会)に応募するも落選。翌41年太平洋画会展覧会に「手洗い石」を出品。これが彝の公募初作品であった。この年第2回文展に応募するも又も落選。しかし彝はへこたれない。レンブラントという画家を知るに及んで研究に没頭する。そして明治42 年の第3回文展に出品した「巌」が評価され褒状を受けるという栄誉に輝いたのだった。その後第4回、第5回の文展で連続入選を果たしていく。こうして美術学校の出身でもない彝が華々しく画壇に登場していくのである。

    < 彝の失恋と相馬良との確執>
     彝の一生を語る時相馬家との関係、特に愛蔵の妻良と娘の俊子が決定的に重要である。この辺のところを少し覗いてみよう。
     彝が絵に本格的に打ち込み始めた頃、新宿に中村屋というパン屋が開店した。明治40年12月のことである。相馬愛蔵夫妻の2軒目の店であった。
     翌年彫刻家の荻原守衛(碌山)が帰国し新宿にアトリエを構える。碌山は近くの中村屋に出入りし一家と親しくなって行った。碌山のアトリエには多くの美術家が集まった。彝と中原も通った。そんな縁で彝も良と知り合うようになった。碌山が急逝し、そのアトリエは中村屋の敷地の奥に移築された。このアトリエを彝が借りるのである。明治44 年12 月だった。彝24 才。良は才媛の誉れ高くしかも男を魅惑する女性だったからたまらない。
     今は亡き碌山が良に振られたことは知っていただろう。でも彝も彼女の虜になっていくのである。しかし良は涼しい顔をして近づく男どもを容易に受け入れない。煩悶するのはいつも男たちだ。そうこうするうちに良の娘俊子が彝のモデルになるという事態になった。俊子は15 才の女学生ながら豊満な肉体の持ち主。彝は着衣の俊子も半裸の俊子も描くのであった。今から100 年も前のことである。このことを許した相馬夫妻には頭が下がる。  
     さて彝は良から俊子に気が移り、恋愛感情を抱き結婚まで考えるようになった。しかしここで良から待ったがかかる。結核が悪化する彝に娘を預けるわけにはいかない。親として反対するのは当然だろう。苦悶する彝は伊豆大島に逃避行。良との親しい関係は断絶し、帰京後中村屋裏のアトリエを去ったのである。

    < 新アトリエ以降の軌跡>
     大正5年8 月、下落合(今は新宿区)にアトリエが完成。37 才で亡くなるまでこのアトリエで病と闘いながら創作活動を行った。≪田中館博士の肖像≫や≪エロシェンコ氏の像≫を始め数々の静物画や下落合の風景画を残した。身の回りの世話は岡崎キイ(土佐山内候の元側室)が担ってくれた。3 年近く疎遠になっていた良との関係も復活した。しかし良は俊子が結婚したことについては触れなかったという。親友の中原悌二郎が逝き意気消沈する彝。大正12 年の関東大震災を体験し、「絵を(思ひ)かく事以外に自分の心に絶対の安神を与へ、死に打ち勝つべき道はない」との確信を得る。こうして己を鼓舞しなら絵筆を握り続けて短い一生を終えたのだった。今は水戸市内の墓地に静かに眠っている。

    ≪彝を巡る人々≫
     彝は生涯多くの恩人、友人に恵まれた。議論好きで激しい一面もあったが、彝の周りにはいつも友人や支援者がいた。彫刻家に転向した中原悌二郎、エロシェンコを競作した洋画家の鶴田吾郎、同じく画家の曾宮一念野田半三たち。支援者では銀行家の今村繁三、新潟県在住の洲崎義郎、彝の病を治そうと医師の紹介に尽力した小熊虎之助、最後の主治医となった遠藤繁清、そして相馬愛蔵、良夫妻。他にも紹介しきれない友人たちが彝を見守り、励ましていた。これらの事実は彝の人間性を雄弁に物語っているのではなかろうか。

    矢代幸雄の言葉≫
     「明治以来の日本の洋画界に颯爽たる秀姿をもって彗星の如く出現し、人の眼を射るばかりの才能に満ちたる光芒を放ち、もしも長命の人ならば七十年以上もかかって経過しそうな芸術過程を、わずか37年で完成した中村彝の如き例は、他にほとんど見ないと言ってよい。この彗星が満天を横切って傑作をまき散らしつつ走ってより、群星ほとんど色を失ったと言っても過言ではない」
     美術評論界の泰斗、矢代氏の言葉は彝の生きた価値を短い文章で言い得て妙である。

    ≪私の感慨≫
     彝は兄二人の影響から軍人を目指した。当時はそういう時代だったのだろう。ところが結核に冒され挫折。健康であれば軍人で終わっただろう。病を得て画家になった。何という天の配剤だろう。では長生きをしていたらどうだったか。昭和の時代に戦争画を描かされていたかもしれない。だからあの彝で良かったのだと思いたい。 
     (ひまわりサークル I)
     


キャスト

相馬愛蔵(中村屋の主人) 伊藤 孝雄
中原悌二郎(彫刻家) 小杉 勇二
宮田巡査(大杉の尾行) 松田 史朗
エロシェンコ(放浪のロシア人) 千葉 茂則
大杉栄(無政府主義者) 境  賢一
中村彝(画家) みやざこ夏穂
岡崎キイ(彝の家政婦) 塩屋 洋子
相馬良(愛蔵の妻) 白石 珠江
神近市子(大杉の協力者 愛人) 河野しずか
相馬俊子(二人の娘) 印南  唯
古川巡査(大杉の尾行) 梶野  稔
山村巡査(エロシェンコの尾行) 岡山  甫

スタッフ

吉永 仁郎
演 出 高橋 清祐
補演出 中島裕一郎
装 置 勝野 英雄
照 明 松島   勉
音 響 岩本 道雄
衣 裳 宮本 宣子
効 果

岩田 直行

美 術 深川 絵美
舞台監督 藤澤  徹


関連サイト

管理人の責任でリンクしています、不都合がありましたらご連絡いただければ幸いです。

劇団民藝ウェブサイト http://www.gekidanmingei.co.jp/
『大正の肖像画』解説 http://www.gekidanmingei.co.jp/performance/2018taishounoshouzouga/

劇団民藝Twitter https://twitter.com/Gekidan_Mingei

中村彝アトリエ記念館ウェブサイト https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/tsune/40357/

新宿中村屋サイト内 中村彝 https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/founder/people/p_002.html
メナード美術館サイト 日本洋画 所蔵している中村彝の絵の解説があります
 http://museum.menard.co.jp/collection/japanese_w/index.html

境賢一さんブログ https://ameblo.jp/kumas0820/
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最終更新日 2018/05/01