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名演2017年3月例会 劇団文化座公演

旅立つ家族 
原作/金 義卿 翻訳/李 惠貞
脚色/金 守珍・佐々木愛 演出/金 守珍


イ・ジュンソプの生きた時代を知ろう

日本の植民地・朝鮮

 イ・ジュンソプは1916年に生まれ、1956年に亡くなった。満39歳。あまりにも短い人生であった。時代のうねりに翻弄されて生きねばならなかった彼の生涯。その時代を概観してみよう。随時、妻であった山本方子にも触れていきたい。

 イ・ジュンソプが生きた朝鮮(戦後は韓国、北朝鮮に分断)は屈辱と受難の時代だったと私は規定したい。石川啄木が「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」と詠ったのは1910年のことだった。日本が日清、日露の戦いで勝利を収めてすぐ後、大韓帝国を併合した年である。喉から手が出るほど欲しかった朝鮮半島が日本の植民地になったのである。初代総督寺内正毅(まさたけ)は「小早川・加藤・小西が世にあらば、今宵の月をいかにみるらむ」と秀吉時代を想起して詠んでいる。この啄木と寺内の落差! 寺内や大多数の国民が大歓迎する中、啄木は朝鮮の人々の哀しみを鋭敏に感じ取り批判を行った人物だった。この植民地時代は35年間続いたのである。私たちはこの併合がもたらした負の遺産を忘れてはならないだろう。それは朝鮮民族に対する優越感と差別心である。100年以上経ってもそれは健在!?である。

 この韓国併合から6年後、1916年にジュンソプは生まれた。1945年の終戦で朝鮮は解放されたので、ジュンソプは29歳までは日本の植民地時代を生きたということになる。当時の日本の政策は、土地などの財産や言葉を奪い、また宗教の変更を迫り、果ては名前まで日本流に変えさせたのである(皇国の臣民化)。想像して欲しい。私たちがそんな扱いを受けたらとしたらどう感じるかということを。この時代は朝鮮民族にとってどんなに屈辱的だったか。併合後、当然のことながら韓国国内や満州で独立運動が執拗に行われた。日本の官憲がその都度弾圧に走り回った。ジュンソプは日本の政策(学校教育など)を体験したり、周囲からも聞かせられたであろう。ジュンソプを始め多くの朝鮮人が日本(人)憎しと思ったとしてもやむを得ないことである。

 お芝居の中でこんなシーンが出てくるので注目して欲しい。ジュンソプが旧制中学の美術の先生と会話をしている。先生曰く。「今の私たちに自由はない。君の独立運動は絵を描くことだ。まずその技術を磨かなければならん。君は東京に行くべきだ」    
 ジュンソプが答える。「東京に?僕たちの朝鮮を呑み込んだ虎の穴に入れですって?…彼らの飼い犬になれと云うんですか?それなら僕はいっそのこと満州に行きます。絵の代わりに銃や刀を握った方がよっぽどましです」

 その後、今度は兄とのやり取りがある。ジュンソプが先生の勧めを受け入れて、日本で絵の勉強をしたいと意志表明したら、兄の猛反対に遭う。その時ジュンソプはこんセリフを吐く。「兄さん、絵描きがだめなら、僕は満州に行きます。昌福(チャンボク)と約束したんだ。満州に行って独立軍になろうって」

 ジュンソプは日本で絵の勉強をしたい、しかし一方で日本に反旗を翻して友人たちと独立運動に挺身したいとも思う。心が揺れ動くのである。祖国を愛する青年の複雑な心模様がこの芝居にも投影されていると言えよう。

東京文化学院に留学

 さて後にジュンソプの妻となる山本方子は1921年(大正10年)神戸で生まれている。1923年が関東大震災。この時多くの朝鮮人が虐殺されたことはご承知の通り。1931年満州事変。いわゆる十五年戦争の始まり。これらの重大事件をジュンソプは学校でどのように教えられていたのだろう。1936年(昭和11年)いよいよジュンソプは日本へ渡る。帝国美術学校に入学。この年、2・26事件。首都東京は騒然となる。翌1937年、ジュンソプは文化学院に編入。この文化学院は与謝野晶子も設立に関与した学校で、当時としては珍しい自由な校風で知られていた。この年日中戦争が始まる。1938年、国家総動員法施行。戦争の気運が一層高まって行く。   1939年山本方子が文化学院に入学。ジュンソプとの運命的な出会いの契機となる。1940年、朝鮮で創氏改名始まる。名演でも以前この問題を扱った『族譜』という芝居を上演した。ジュンソプの実家はどうなったか?

帰国と結婚

 1941年12月太平洋戦争勃発。1942年、朝鮮での徴兵制実施。アメリカによる本土空襲始まる(東京も対象)。1943年学徒出陣。ジュンソプはソウルで開かれる第3回美術家協会展に出品するために帰国する。1945年3月東京大空襲。5月方子、単身朝鮮へ渡る。元山でジュンソプと結婚式を挙げる。機雷が浮く危険な玄界灘をよくも渡ろうとしたものだ。恋に敵はなし! 方子の勇猛果敢さ(無謀?)には圧倒される。8月終戦を迎える(日本の敗戦)。朝鮮解放。朝鮮国民は喜びに湧く。

 ところでジュンソプは20歳ぐらいまで朝鮮で過ごしているので、つぶさに日本の植民地政策を体験し、観察して来た筈である。決して住みよいとはいえない母国にはなっていたが、それでも東京に馴染めないジュンソプは故国を懐かしがるのであった。東京での留学生活は前半こそ実家からの送金で何とかなっていたが、送金が途切れてからは苦しい生活の連続であったろう。唯一方子との恋愛が生き甲斐になっていたと思われる。私が一つ不思議に思うのは、20歳代のジュンソプに徴兵令状(赤紙)が来なかったのかということである。内鮮一体が叫ばれた時代である。多くの朝鮮人が日本の戦争に狩りだされて行った。また日本の美術学生も多く戦線に送られた。信州の無言館(窪島誠一郎館長)にはそういう学生たちの遺作が展示されていることはご承知の通り。

 この芝居の中で、ジュンソプはこんなセリフをしゃべっている。「…志願入隊がいつ強制されるか分からないし、東京の空襲は日増しに激しくなるし…」やはり当時の若者と同じように徴兵は覚悟していたのかも知れない。

南北分割と朝鮮戦争

 1945年、いよいよジュンソプの第2の人生が始まる。故国に妻を迎え、解放後の朝鮮に期待をしていたのに、なんとアメリカとソ連の分割統治が始まったのである。そして5年後には朝鮮戦争が勃発。だから私は彼の第2の人生を「受難に満ちた人生」だと思っている。 
 話しを結婚式に戻そう。一人の青年のセリフが当時の朝鮮の人々の気持ちを代弁しているのではないかと思う。「おい、ジュンソプは日本の嫁さんを貰ったぜ。ああ、汚い。汚い。ペッ、ペッ、ペッ」  
 自分たちを苦しめた日本の女を嫁さんに貰うなんて許せないという気持ちが一般にあったのであろう。反対に方子の場合はどうか。差別意識の強い日本ではあったが、両親は喜んで朝鮮へ送り出しているのである。方子にとって何と有難い両親であったろう。稀有な例と言っても過言ではない。

 元山に落ち着いた二人だったが、元山はソ連の統治下にあった。早速ジュンソプは官憲の弾圧を受けることになる。当局からスターリンの肖像画を描くよう命じられていたが、履行しなかった。ソ連や北朝鮮当局が絵を描く自由まで奪うのが許せなかったのだ。兄は目の前で連行されて行った。ブルジョワ思想が当局の逆鱗に触れたのである。身に危険が迫って来るのをジュンソプや方子も感じたことだろう。息苦しい生活に耐えねばならなかった。

元山脱出、済州島へ

 1948年、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が建国される。ジュンソプは好むと好まざるに関わらず北朝鮮の国民になったのである。そして1950年朝鮮戦争が勃発した。元山に住んでいたジュンソプ一家は心ならずもお母さんを残して釜山へ脱出した。優しいジュンソプの心情はいかばかりだったか。

 釜山で難民収容所暮らしを暫くして、翌1951年に済州島の西帰浦(ソギポ)に移り住むことになった。しかしそこでの生活は困窮を極めた。栄養のある食べものを摂取出来なかったのが辛かった。とうとう方子や子どもが栄養失調になり、方子には結核の症状が出始める。これ以上ここで生活するのは無理と判断した方子はジュンソプと別れて日本に戻ることを決心する。当時日本国内でも食べものに不自由したことは年配の方なら記憶にあるだろう。

 この1951年は日本がサンフランシスコ講和条約に調印し、西側の一員として出発した年だった。1952年方子と子どもは運よく日本に戻る事ができた。この年は悪名高い李承晩ラインの設置を韓国が一方的に宣言した年でもある。韓国の初代大統領は李承晩だった。その後日本海では日本の漁船が多く拿捕されるという事態が頻発したのである。この李承晩ラインが日韓関係を更に悪化させて行く要因の一つになった。

ジュンソプ来日からその後

 朝鮮半島では同じ民族同士が3年間も凄惨な戦いを繰り広げていたがようやく1953年休戦協定が調印された。ジュンソプもこれで絵に専念できると思ったことだろう。隣国日本はこの戦争で特需という名の恩恵を蒙ったのである。朝鮮民族の多大な犠牲の上に戦後復興の弾みがついたという事実はなんという皮肉だろう。この年ジュンソプは友人や方子の母親の尽力で日本での特別滞在許可を得て来日し、1週間程家族と過ごすことができた。しかしこれが最後の再会となったのはあまりにも悲しいことだった。 帰国後ジュンソプは統営や晋州などで風景画を中心に創作活動に専念する。

 1955年にはソウルで個展を開催し好評を博すも、銀紙画が春画とみなされ撤去命令が出る。この頃から体調が悪化。翌1956年9月息を引き取る。41歳直前だった。

 その9年後(1965年)日韓両国は国交正常化を果たすのである。 (ひまわり)池田修平  

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最終更新日 2017/02/16
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